|
|
|
著者 : 三四郎
| 撮影 :Shigeru Ueki |
第5回 〜健気なり! フィリピーナ!〜 |
|
先月号のフィリピン恋愛論では日本人女性とフィリピーナの比較論を述べた。フィリピーナの激しい嫉妬には彼女達の人生が掛かっているのだという内容であった。ただ、少し手厳しかったかもしれない。今月は一転して三四郎の考えるフィリピーナの良さを述べてみたい。
フィリピーナの良さは「健気(けなげ)」という一言にまとめられるのではないだろうか。
健気という日本語も日常的に使われなくなって久しい。大辞林で検索すると、「心がけや態度がしっかりしているさま。現代では特に、幼く力の弱い者が、困難な状況で立派に振る舞うさまにいう」とある。
フィリピンの8割以上を占める貧困層の女性は、富や権力を一切持たない。まさに「力の弱い者」。その力の弱い者が父母、兄弟、子供達のために身を削って働き、一族を支えようとする。個人主義、核家族が進み、社会保障によって老親の生活がカバーされるようになった現代日本では、誰も意識しなくなった価値観。 しかし、実は昔の貧しかった日本人が持っていた規範である。
日本へタレントとして出稼ぎに行き、金銭感覚が麻痺して贅沢が身についてしまった一部のフィリピーナは、特殊な出稼ぎによる変異系と考えていい。そのような経験がなく、フィリピン国内しか知らないほとんどのフィリピーナは、毎月数千ペソを稼ぎ、親兄弟に仕送りをし、自分の欲しいものも買わず、その想いを家族に捧げている。
健気という言葉は、「力が弱い」という前提があって成り立つ。先進国日本の女性は経済的に恵まれ、自分の欲を満たすために働く。もちろん女性だけでなく、男性を含めた日本人が皆そうなのである。「力が弱い」という前提がなくなったとき「健気」という言葉は死語になる。しかし、フィリピンにはそれが今なお残っている。
戦中戦後の貧しかった時代を知る団塊の世代以上の日本人男性が、娘のような年頃のフィリピーナに惚れこむ事がある。単に恋愛感情のみの所業とは思えない。彼らの青春時代、貧しかった日本で必死に働き親兄弟を支えた自分自身の姿を、若いフィリピーナに投影しているのだろう。彼女達の心情をおもんばかると居ても立ってもいられない。思わず励まし、財布を開いて援助してしまうのだろう。
そのフィリピーナの健気さだが、決して自分の一族のみに向けられるものではないのだ。独身のあいだは自分の一族に向けられているが、愛する人を見つけ結婚をした後はもちろん夫に向けられ、やがて子供ができれば自分が創り出した新しい家族に向けられる。稼ぎ手の抜けた一族では、妹達が姉さんの想いを受け継いでいく。それが本来の姿だと思う。
しかし、巷で聞くのはフィリピーナの奥さんが結婚後もフィリピンの家族への仕送りに一生懸命で・・・、という話である。確かに彼女が一族の唯一の稼ぎ手という場合がある。その稼ぎ手を日本人との結婚で失うと一族が食べていけないという状況になる。もちろんケースバイケースであるが、これは彼女が日本人の旦那との関係に満足していないという理由もあるのかもしれない。健気さの対象が一族から旦那に移行できていないのだ。教育ママと同じく、旦那との関係が薄いので代わりの対象を求める。旦那の愛に心も身体も満たされれば、精神的にも「一族離れ」ができると思う。
話を元に戻そう。三四郎の経験談だ。
彼女達の健気さが付き合っている僕自身に向くことがあった。失うものは何もない、体一つで彼女達が腕の中に飛び込んでくる。そういう恋愛は今の日本人女性にはなかなか出来ない。日本人は守るべきプライドが大きく、失うことや傷つくことを恐れている。あるいは愛と天秤に掛けられる何かを既に持っている。フィリピーナは何も持っていない。その痩せた体と気持ち一つが彼女である。学歴もない。家柄もない。ポケットには数十ペソしかお金が入っていない。何ら持たない彼女達が同じ人間として真剣にぶつかってくる。難しい言葉じゃない。人間と人間のぶつかり合い。それが愛であることを気付かせてくれる。
何も持たない者が、相手に「自分自身」を一生懸命捧げる。僕はそこに健気さを感じ、だからフィリピーナに填まっているのかもしれない。
第6回 〜確信犯的悪女系フィリピーナ〜 に続く!
---------------------------------------------------------------
|
第4回 日本女性 VS フィリピーナへ |
このページのトップへ | 第6回 確信犯的悪女系フィリピーナへ |
|
|
|